続Super Game Page ―悪徳の栄え―

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zoom RSS 爽快感とゲーム

<<   作成日時 : 2006/06/25 04:01   >>

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実は読み終わらないうちから白洲次郎のことを扱っていました。といっても、テレビ放送はちゃんと見てますし、エッセンスを掴んだ上でです。で、それが読み終わりました(6月23日午前3時半)。

一つ言えるのは、彼の言うプリンシプルは僕にとっても代え難いものであるということです。これを文学にしたら多分『悪徳の栄え』になります。幾らでも他のものに応用できると思います。そういう、とても素晴らしいものです。まあ僕にとってのものは新しくて汚れてない言葉が良いからと、勝手に「クオリウム」とか名付けましたが、コメント欄にも書いたように、「クオリア」じゃどうも最後の「ア」が嫌なんです。口が開いて終わるのが気に入らない。「ク」で鋭く入って、滑らかに流して、「ム」できっちり締める方が音が良いんです。口を動かす上でも心地良い。あれこれ理屈を重ねはしましたが、僕にとってはこんなところだったりもします。

しかし、白洲さんのような人がどうして教科書に出てこないのか理解できません。もっとも、現代史の扱いが難しいことの理由には、扱われる人が存命であったり、家族の方がいて、下手なことが書いてあると重大な損害を受けかねないということがあります(あとは、当人に嫌な思いをさせられた編集者や省庁が、載せたくないと思ったり、今後の波及を過度に考えてしまうのでしょう)。この事情はこの通りで、白洲さんがテレビ放送で扱われたのは、まさになんのしがらみも持っていなかったからだと小耳に挟みました。このような現代史を扱う際の事情を見るだけでも、日本人が他国と比べて全体的にどれだけ優しいのかが明確に分かります。とまあ、これからは、政治家などの著名人のみならず、国民全員、死ぬ前か死んだ後遺族に「媒体で扱うことの是非」を宣言することを法制化したらよいと思います。是とするならば、「何を誰にどう言われようとも文句は言わない」くらいの心構えを持つべきです。可能ならば、生きてるうちから表に出る人はそれを明言した方が良いでしょう。僕はもちろん、常に「是」です。まあ、メディアを使う人だけでもいいか。ブログを書く人もそうですね。一応付け加えておきますけど、「僕はこう思う」ということです。

タイトルのことに戻ります。口の動き方について書きましたけど、要は理に適っていて自分にも適っているのだ認知したときの心の働きを「爽快感」と呼ぶのだと僕は思います。僕にとっての「爽快感」はこういうことです。だから、僕と思考の働きが近いものに触れたときに、僕はその爽快感を抱くのだと思います。そして、なぜそんなことが起きるのかある意味では信じられないし、謎でしかないからこそ「感動」して、その一方向に心が向かってしまい、考える余裕さえも奪われるのでしょう。その反応の一形態が「涙」とかかもしれませんね。

ゲームの爽快感はどうでしょう。あれは慰めに近いんじゃないでしょうか。仕方無しに逃げたところで「痛いの痛いの飛んでいけ!」と言ってくれる親や先生みたいなものです。これを、今の僕はあまり爽快なものだとは思いませんけどね(ゲームは喩えてみるなら、炭酸の抜けたコーラみたいなもの。どうせなら気の抜けたのは捨てて、金を多く払ってでも、ガツンとくるコーラが飲みたいんです)。しかし、ゲームに戻ってみると、ゲームの自由度と爽快感の結びつきは、つまり、自分が思うことを実現できることですから、確かに爽快だと言っても良いのでしょう。その敷居がとても低いゆえに、誰でもそれを手軽に味わえるってのが良くも悪くもあるのだと思います(僕は、低すぎることが嫌です)。ただ、繰り返しになりますが、格闘ゲームという形態に僕は魅力を感じませんし、無関心なので、今更になってから格闘ゲームで爽快感を求めようとは全く思いません。


参考:
歴史とゲーム(白洲さんの本は必ず読んで貰いたいです)
http://liquidmetal.at.webry.info/200606/article_33.html

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