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zoom RSS 世の中の本質

<<   作成日時 : 2006/07/28 09:58   >>

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僕にとって、嫌いな言葉の1位であり、なおかつ、好きで多用する言葉の1位でもある「本質」について、簡単に書いてみます。理由は特にありませんけど、書きたくなったのです。

その前に、この「ルビンの壷」って知ってますか?多分、知ってますよね。




「壷にも顔にも見える」という騙し絵の一つです。心理学(認知科学)の初歩的な講義を受ければ必ず触れられますし、そうでなくても、いたるところで使われているものです。専門的には、図と地、ベース(地)とプロファイル(図)なんて言ったりもします。「壷かつ顔」がこの絵の状態だとしたとき、「どちらか一方にしか認知できない」、「見たら必ず図と地に分解してしまう心理的機能が人間に備わっている」などの説明が付与されます。

ここから表現について考えてみます。僕にとって、何かを表現するというのは、この「ルビンの壷」で簡単に喩えるならば、壷を描くために顔を2つ描いてそれを黒く塗る、顔を2つ描くために壷を描いて枠を設置する、のごとき行為です。そして、結果として、ではなくて、始めから結果を意識した上でこれが為されなければなりません。ある一つの全体を、別の全体を作るために再構成するようなことです。当たり前と言えば当たり前ですが、このように捉えています。

三島由紀夫が『太陽と鉄』の中で、「現実と言語の関係とは、エッチングにおいて銅を腐食する硝酸の関係に等しい」と言っているのを発見して、なるほどと思いましたが、僕もこれに完全に同意しています。もっと分かりやすいもので言えば、キャベツに対してその汚れを取ったり包丁で切断したりするものが言葉といったところです(千切りなどを作ったりするためにね)。僕は、全体と部分の関係は、全体があるからこそ部分があるのだと見做しています。部分が集まって全体がたまたま生まれているのかもしれませんが、前者の見方を使った方が、後者よりも、全体なるものが明確に考えられるために、このトップダウン的な見方を採用しています(後者を否定しているのではなく、好みの問題)。左利きの名残なのか、全体性らしきものが妙に具体的に見えてしまうんですよ(視覚的には存在しなくても、確かにそれが実在してるように思えてしまいます)。

それにしても、全体や全体性を切って切って切り尽くした先に部分や部分性がある、部分や部分性を集めて集めて集め尽くした先に全体や全体性がある、と捉えるのが人間の能力的にも自然です。しかるを、部分と全体が混同されることが多くあるのが気がかりです(このブログでは、「たとえ話」がテーマの記事でよく書いてます)。これを混同したらロクなことになりません。僕は、ゲーマーによるゲーマー向けのサイトとしてこのブログが存在していたことを踏まえて、その典型例をゲームとゲーマーから題材を取って幾らか述べましたけど、こういうことは世の中に広く蔓延しているように思えます。自分なりにかなり多くの物事を見、先人の考えも尊重した結果、こう思うに至っています。

全体と部分ってのはカテゴリーが明確に違います。現実と観念なんてのも違います。この二つを並べてその先に何があるのか目指すならまだしも、ごっちゃにすると下痢みたいなものができあがって不衛生なのです。ジャーナリズムならば、「我々の問題」という抽象的な観念と、現実の一事件、一犯罪者、一心理をあべこべにしたりすることが多くあります。もっとも、先の安倍官房長官に関するTBSの事件にも見られるように、まるで関係ないものを部分に組み入れて関連付けを設定しようとする悪質なものもあって、あまり簡単なことではないんですけどね。ま、あれに関しては、国家と国民と、その全体の共有財産たる電波を使わせてもらう(=法律や様々なガイドラインから一定の規制を受ける)という三者関係を、これまた取り違えて、「言論の自由」とか「表現の自由」のような国家と国民の二者関係へと還元してしまっている様子も見られますから、混同について学習するには適切な題材かもしれません。つまるところ、ごくごく身近なところからも、この混合による瘴気が発せられているということです。

全体ばかり語っていたので部分についても。部分を集めて集めてそこに共通して見られる性質から全体に迫る性質は、人間においては普遍的に見られ、特に、言語学習に際してその能力が発現するのを観察することができます(幼児の母語学習がその最初)。母語は時に意識しづらいから英語で考えてみましょう。SVOにせよ、SVOCにせよ、英語をかなり的確に捉えたものですが、どうしてこういう抽象的な観念が生まれたかといえば、英文を読んで読んで読みまくった結果、大まかにこんな構造に分類できるぞという結論に誰かが至ったからです(5文型ってのは単純化しすぎてて問題もありますが、それは置いておきます)。何が言いたいかというと、部分と部分性を、量と質どちらも十分すぎるくらい十分に検討しなければならないということです(細かいことを知りたい方は、どっかの図書館で関連書籍を探してください)。

ジャーナリズムという具体的事例に戻ります。送る側は放っておくとして、受ける側が現実の妥当な全体像を捉えようとするためにも、この方略を取らなければなりません。こういうのをメディアリテラシーと呼んだりするらしいですが、こんなのは朝起きて顔を洗うくらい当たり前の話です。「人間の心の闇」なんてものは心理学に任せておけば良いのに、そういう抽象的なものを泥臭く汚れた家庭的な言葉で語るからダメだと思うんですよ。ある事件を扱うなら、「最初、A社とB社はあのように、C社とD社はかのように述べたのに対して、現在ではこのようにそれぞれが変容している。類似の事件においてはこうであった。これらから、我が社は以下のように事件の全体像を推測し、諸問題について指摘したい」とやってくれれば良いのに(文春なんかはこういうスタンスだから好きなんです)、受け手にこのような役割が要求されています。しかるに、このような態度や見方の必要性は、ほとんどどこでも語られないんだから酷い話です。幼児教育の時点から、こういうことを養わないとまずいんじゃないでしょうか。

飛躍をまたもや繰り返してしまったので、最後に、僕なりの具体的な行動例でも書いて終ります。以下は別のところで僕が書いたものの転載です。

---
本文:
僕の母親は銀行でパートをしています。そこで、「人権啓発標語」を提出するようにと求められたそうです。

参考のリストを見ると、「解決するのは時間じゃなくて みんなの勇気と正しい知識」とか、「人権は 世界平和の プラットフォーム」なんてのが並んでるんです。僕は人権とかにクソほどの興味もないんですけど、これらを愛する連中が好きそうなコピーを作ってみました。以下リスト。

A. (社会の中の)差別、それは人々の夢を消し飛ばす原子爆弾。

B. 差別、それは社会に私たちが埋めてしまった地雷兵器。

C. 子どもたちを守りたい。差別という放射性物質から……

『マルドロールの歌』から着想を得、人権を掲げる連中が最も嫌い、差別と同様に排除したいと喧しく排撃する人道無視兵器を並べてみました。どうだろう、結構自信あるんだけど。

コメント:
B!
お母さん銀行で働いてるの初めてきいたw

自分の返信:
協議を経た結果これに決まりました。

「子どもたちを守りたい。差別という、社会に埋め込まれた地雷から……」
---

僕がそのまま書くと強すぎるらしいので、友人や親のようにマイルドな思考を持った人に助けてもらって、最後の提出するものを作りました。何をするにもこういう態度です。ああそうだった、「本質」のこと忘れてました。僕にとって、「本質」ってのはこんな風にしたときに立ち上ってくるもの(もちろん、僕からすれば、立ち上らせることも同時に意識しています)ってことです。危うく、この大事な一文を書き忘れて終わるところでした。


補足:
人権のコピーだったら、違ったアプローチから、「きっと死後の世界は天国さ」とかでも良いんでしょうけね。とはいえ、やりようは色々あります。

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