続Super Game Page ―悪徳の栄え―

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<<   作成日時 : 2006/06/28 00:39   >>

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幼児ってのは凄い存在です。僕は、いつでも、感性だけは彼らのようでありたいと思っています。肉体はもう変えられなくても(微細には変わるかも)、脳みそは変えられるといいますし、自分の脳みそを、幼児が粘土遊びでもするように、思い通りの形へと作り変えてやりたいと思います。

幼児と言えば広い意味での遊びやゲームを連想します。上記の考えを実践するために、友人と一緒に、幼児になったつもりで1ゲームやってみました。内容は単純で、新宿駅東口の改札からパスネットで入って、一旦、小田急の改札から外に出て、食事をして戻る(その際、パスネットの残金を減らしてはならない)というゲームです。

結局どうなったかというと、駅の中をぐるぐると廻って、駅員さんに話して、事情を適当に捏造して、2時間の猶予を貰って、その間に色々と用事を済ませることになりました。JRの改札にパスネットを入れること(知ってれば何のことはない)、出られなさそうなところを強引に出ることに始まり、そのままではダラダラしてしまいそうなところに「2時間」という制限時間をつけて行動にメリハリを付けたこと、事前に得たゲーム関連の機器の売却益で美味しい食事に舌鼓を打ったこと(鳥取の名産品で、馬のタテガミ、トビウオの一夜干し他)、その場で本についての話題で一盛り上がりしたこと、それを通して様々な感情を改めて体験したこと、それらが最高潮となったところでスッパリと止めて良い要素だけを残せたこと等々、普段の生活ではゲームになりそうもないところを強引にゲームにしてしまったことで、とても愉快になることができました。やっぱり、与えられた単一のゲームの枠の中であれこれやるのでは刺激が足りません。ありえないものをゲームに仕立てるほうが、遥かに刺激的です(堀井雄二さんはこんな遊びを学生時代にしてたんだとか)。

ここで、幼児に関連して、日曜日のことを思い出してみます。朝、沖縄産マンゴーを丸ごとむしゃぶりついて食べました。皮も種も食べませんけど、熟れたマンゴーの皮をズルリと取り外して、その裏を嘗め回し、身をひとしきりむさぼった後に、種の周りをしゃぶり尽くすという幼児的な食べ方を実践しました。その後は、もちろん、手についた汁も丹念に味わいます。こうすることで、自然の賜物を素直に味わい、一体化したような妄想を得ることができます。こうしてみると、赤ちゃんのコスプレをして乳児になりきる遊びが中年男性の間で流行るのも当然かもしれないと思えてきます。

そういえば、毎週日曜日に僕がチェックしている番組に「はやく起きた朝は」(CX)があります。これの何が良いって、出演してる3人の女性が、素直な感情を洒落た形で楽しく伸び伸びと表現しているところです。これだけ素直だと、見てて心地良いんですよ。さすがに、10年くらいにも渡って支持され続けているだけのことはあります。話してる内容なんてクソ下らなくてどうでもいいんですけど、その表現の素直さが良いんです。同様に、「サンデーモーニング」(TBS)もあのグダグダな素直さが良いと思います。下手に繕うと痛々しくなります。

飛びます。ここまでの話と関連させて教育について。中1の一番最初に「三人称単数現在形のs」ってのやりますよね。それはそれで良いんですけど、“He play the...”と言ってしまったときに「ハイ!○○君!それは間違いですから!!」ってのはおかしいと思います。そもそも、アメリカ人の連中がそんな“s”にどれだけ注意してるかというと、してないと言った方が良いくらいです。いわゆる黒人英語なんてのはその典型例です(白人も同様)。だから、僕に言わせますと、「その“He play the...”がいかなる状況だったら意味を成すのか考えさせることの方が大事」となります。説明の際に使う材料は、民族的背景でも良いし、身体的背景でも良いし(発音がしづらかったとか)、「“He”で始めたけれどその途端に彼が目の前に現れたために“you”と混同してしまい、咄嗟に“play”を繋げた」としても良いし、説得力さえあれば何でも良いんです。こういうことを養わないでどうするんだろうかと常々思います。

そしてまた、新たな概念を得るためには今以上に英語を活用すべきだとも思います。朝鮮半島のように漢字を捨ててしまう国は論外としても(怒られるかもしれませんが、僕にとっては信じられません)、日本でも常用漢字を減らしたり(「渋沢」と「澁澤」じゃ全然違います)、教えられる概念が減ってきています。本来、ものの見方は多くあって困ることなんてありえないにも関わらず、英語と日本語が完全に一対一で対応するかのように、ある意味では「洗脳」してしまう教育は良くないと思います。例えば、日本語で「可能性」と言うとき、英語では“can”も“ability”も“possibility”もあるわけです(順番に実現性が低くなると理解して貰って当座は構いません)。このように、あるものが今までとは違った方法で分割可能であることを教えるのは、すなわち、もの(ある事象)の見方を教えることですから、積極的にやるべきです。とはいえ、日本語の場合、この手の可能性とか妥当性の話をするとき、「〜だろう」のように、「〜う」など一つに頼りながら大昔から表してきてますから難しい点も多々あるんですけど、それでも、この状況を英語では“I can do it.”とは言うけれど、“I wonder if I have any possibility to do it?”などとは言わない(英文は適当に作りましたから正しいとか間違ってるとあげつらわないでください)、なんてことは教えた方が良いと思います。これを「可能性」とか「〜う」で片付けるのは、楽である反面、勿体無くもあります。同じ「可能性」でも0.0001%と50%じゃかなり違いますよ。

最後は素直さの話。具体的なことを言います。いくら音楽に疎かろうとも、素人のオーケストラと(それはそれで味がありますが、一旦それは置いてください)、ウィーンフィルのオーケストラの二つを比べたとき、どちらが自分の感性を充実させてくれるか判断することはできるはずです(比較対照の中にゲーセン内の騒音を加えてもいいかな)。そして、恐らく、それは多くの人と共通です。さっき挙げたマンゴーもそうです。国産の熟れたマンゴーと、あまり熟れてない安売りのマンゴーを食べ比べたとき、どちらがより美味しいかなんてのは絶対に分かります。難しいものも色々ありますけど、人間ってのは巧くできていて、自分の感覚を満たしてくれてなおかつ+αがあるくらいのものを心地良く感じるようにできています。それに素直な僕にとって、少しずつ少しずつ、良いと思えるものを実際に体験していくことってのは最上の快楽です。僕は、学期末試験のように「格ゲーをやり始めたのだからやり終えなくては」なんてことは思わず、そんなものはバッサリ捨て去って、自分の感覚の赴くままに任せた方が絶対に良いと確信しています。「後ろめたいことはやらない!」ってことです。でも、多分、日本人って優しいからそこがなかなかできないんですよね。「昔みたいに『武士道』のような行動規範があったら、そのあたり楽に済んだかのかな」なんて思ったりします。


参考:
堀井雄二さんが出たラジオの録音(貰い物)を思い出しました。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
私信です。

昨日はお話してくださって有難うございました。
私にとっては新しいものの見方を感じたため、非常に興味深かったです。

大会は優勝しましたが、何か虚しさが残りました。剣道で優勝するのとは雲泥の差が有りますね。優勝景品の図書カードで早速本を3冊買いました。葉隠れ入門、青の時代、斜陽です。
煙突
2006/06/26 20:25
>煙突さん
僕も煙突さんと話せて有意義でした。ありがとうございます。

新しいといっても、僕の場合、昔からあるものの見方をしてるだけに過ぎません。ですので、その購入された本と心から親しんで、読んだらそのことを誰かに話すなどを心がけてください。ちなみに、僕は、それらの本を読んで煙突さんが何を思われるのかに強い関心を持っています。

煙突さんはその虚しさをなぜ感じたのか、それを突き詰めて行ってみてください。それは、きっと有意義なことだと思います。
エキタイ
2006/06/26 21:28

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